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南北戦争中の北軍第11軍団(XI Corps)は、当初バージニア軍第1軍団として編成され、後にポトマック軍の所属となって第11軍団に名称変更された、移民ドイツ人の連隊を多く含む軍団である。 ==結成とバレー方面作戦== 第11軍団の元となったのは、ジョン・C・フレモントの山岳軍管区(Mountain Department)の部隊とルイス・ブレンカー(Louis Blenker)の移民ドイツ人師団(第2軍団第3師団)の2つの部隊である。ブレンカーは第一次ブルランの戦いで移民ドイツ人旅団の旅団長を努めており、予備に回ったため戦闘にはほとんど参加しなかったが、後にはポトマック軍の師団長となっている。しかしながら、1862年春のポトマック軍の半島方面作戦にはブレンカーの師団は参加せず、フレモントの部隊に加わった。フレモントの部隊は、バージニア西部(現在のウェストバージニア州)で活動した。1862年春に南軍ストーンウォール・ジャクソンがバレー方面作戦を開始すると、マクドウェルの戦い(5月8日)とクロスキーズの戦い(6月9日)でジャクソンと戦った。部隊は大きな損害を受け、6月末までには補給も困難となった。兵士には数ヶ月間給与が払われず、また病気や落伍によって多くの兵を失った。 1862年6月24日、ジョン・ポープ少将のバージニア軍が結成されたことに伴い、エイブラハム・リンカーン大統領の命令により、山岳軍管区はバージニア軍第1軍団と名称が変更され、引き続きフレモントが司令官を務めることとなった。バージニア軍はフレモントの第1軍団の他、第2軍団(ナサニエル・バンクス、元はポトマック軍第5軍団で後に12軍団に名称変更)、第3軍団(アービン・マクドウェル、元はポトマック軍第1軍団で、後に第1軍団としてポトマック軍に復帰)で構成されていた。 フレモントは自身の方が先任であるとして、ポープの部下になることを拒否した。このため、6月29日にフランツ・シーゲルが軍団長を引き継いだ。第1軍団の多くのドイツ人兵士はあまり英語は話せなかったが、英語とドイツ語を混ぜた「I fights mit Sigel(ジーゲルと共に戦う」は、彼らのスローガンとなった。リンカーンは、軍事的というより政治的メリットからシーゲルを軍団長に据えた。第二次ブルランの戦い(8月28日 - 8月30日)でもシーゲルは軍団を率いたが、戦死295人、戦傷1,361人、行方不明431人、合計2,087人という大きな損害を受けた。第二次ブルランでは軍団は3個師団で編成されていたが、師団長はロバート・カミング・シェンク准将、アドルフ・フォン・シュタインヴェール(Adolph von Steinwehr)准将、カール・シュルツ准将の3人で、全員がドイツ語を話せた。加えて、ロバート・ミルロイ(Robert H. Milroy)准将の独立旅団が追加されていた。 1862年9月12日の一般命令129号により、軍団はポトマック軍の所属となり名称は第11軍団に変更された。これはマクドウェルの第3軍団が、ポトマック軍に復帰して元の名称の第1軍団に戻ったことに伴うものであった。ポトマック軍のメリーランド方面作戦および1862年秋の間、第11軍団はワシントンD.C.正面の北バージニアにあり、センターヴィル付近の前哨基地をいくつか占領した。12月にはフレデリックスバーグへ向かって進軍したが、北軍の敗北に終ったフレデリックスバーグの戦い(12月11日-12月15日)には加われなかった。その後バージニア州スタンフォードで冬営に入った。 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「第11軍団 (北軍)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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